歴史と日本人

日本という国は、悠久の歴史を持つ国である。この国に生まれた喜びと誇りを胸に、本当の歴史、及び日本のあり方について考察してみたい。
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最終回 靖国とは「国家」である

 英霊は「靖国で会おう」と言った。靖国こそ、英霊と出会うのに相応しい場所だ。もちろん英霊の方々が生まれ育った地にも魂はいるだろう。日本の神道は魂は一つなどと決めていない。数多く分祀されている霊もいる。だが特に軍人として、国のために戦った部分の魂は靖国神社にいるに違いない。
 この国は今現在生きている人のみで構成されているわけではない。なぜなら我われ生者は死者から多くのものを引き継いで今ここにいるからである。肇国から今までの先人の魂の上に、屍の上に我われは生かされているのだ。この国のために命を懸けて戦った先人がいる。命を懸けて戦った先人がいるからこそ今の我われがいる。どうして先人に手を合わさずにいられようか。国民を率いるべき政治家、総理大臣ならなおさらのことである。それは公に尽くす首相として当然のことではなかろうか。小林よしのりは「ゴーセン暫・第二幕第三条」のなかでこう述べている。「(靖国神社に首相が参拝することは)いざとなれば命を懸けても国を守るという『公民』としての誓いの表明である」。まさにそのとおりである。命を懸けて国を守る護国の魂こそが、靖国という場所にふさわしい。
 ところがこうした靖国神社に対し、親米反支那のカードとしか捉えていない奴がいる。そういう人たちはアメリカが遊就館を批判しだすと真っ先に取り上げて、靖国を非難する側に回った。岡崎久彦がそれである。私は岡崎久彦の媚米ぶりを「反米保守主義者の戯言」というブログ(現在削除)の中で批判たことがある。保坂正康と秦郁彦の「文芸春秋」での発言も(他ブログへのコメントの中だが)批判した。小林よしのりはネット界では支那朝鮮批判はありえてもアメリカ批判はありえないと思っているようであるがそれは違う。確かにアメリカ批判は少数派ではあるが確実に行われているのである。小林よしのりとは結婚観以外は意見が合うことが多い。青山学院高等部が作ったひめゆり学徒の入試問題への考察も氏と同じでびっくりしたことがある。だが、彼の意見にただ納得しているのではなく、批判的に見て、それでもこの意見はもっともだ、というところを取り上げている。だから私は小林よしのりを批判しつつも実はすごく評価しているのだろう。
 本題に戻る。靖国神社は「国家」そのものだ。「国家」とは国家主権、先人の遺志、日本の歴史・文化・伝統・言葉など「我われの国民としての一体感を生み出しているもの」を指している。もちろん「国家」は靖国だけではない。「国家」として挙げた上記のものはもちろん、神道、国旗、国歌、皇室、国語などもすべて「国家」である。「国家」がなければ我われは言葉も話せない野蛮人となってしまう。「国家」を解体する動きに対し、私は断固反対する。
(「歴史と日本人」平成18年9月29日掲載)
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第八回 海外の要人を迎える場所

「靖国神社は外国の元首を迎えるのに適切ではない」という意見がある。しかし、その意見ははたして的を得ているだろうか。

 各国首脳が相手国の戦没者墓地に行くのは礼儀である。日本にはそれは靖国しかない。靖国神社が適切でないと言う人たちは、靖国の歴史観が問題だと言う。しかしそうだろうか。連載の第一回でも述べたので詳しくは述べないが、靖国の歴史観はサヨクがいうほど軍国主義的ではない。また、神道式で祀ってあることも極めて自然な選択だ(これも第七回で述べた)。靖国は一宗教法人となった今も国家の公を影で支え続けている。早急に国営化すべきだと思う。もっとも、今の靖国の面影を台無しにしてもらっては困るが。
 また、サヨクは靖国神社には外国の要人は参拝していないと思い込んでいる。無知である。ざっと述べるだけでも、チベットのダライラマ14世、リトアニアの首相、旧朝鮮王朝の李玖王子、ペルーのフジモリ前大統領などである。武官なども含めると膨大な数になる。
*参考:「思いつきブログ」
 これ以外にも、1975年5月、エリザベス女王の来日に当たって英政府は、女王は千鳥ヶ淵の戦没者墓苑の墓か靖国神社に参拝する考えである旨を伝えてきたが、日本政府は丁重に断っている。また2002年、アメリカのブッシュ大統領は靖国神社への参拝を打診したが外務省が政治問題化することを恐れ、明治神宮に切り替えている。つまり、外国首脳は気にしていないにも関わらず、日本側が勝手に怯えているのが真相なのである。

 以上のように靖国神社が外国の要人を迎えるのに適切でないなど大間違いである。そのような認識は国立追悼墓地を作りたい隠れ靖国嫌いのデマと言ってよいだろう。
(「歴史と日本人」平成18年12月14日掲載、原題「連載・靖国問題 補足」)
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第七回 靖国と神道

 「靖国はなぜお寺や教会ではなく神社だったのか」。それに答える前に、国家としての慰霊は必要なのかを考察したい。国家とは一つの共同体である。その共同体のために命を懸けた人を顕彰するのは当然である。慰霊することをやめてしまえば、共同体のために殉じる行為が無駄になってしまい、報われなくなる。そうする行為は、まさに国家という共同体への解体作業ではないか。国家的慰霊とはまさに国家への殉教者を再生産していく行為である。「国家以後」はおそらくありえないと私は見ている。よってこの行為を是認することになる。
 本題に戻る。なぜ、神道なのか。それは、例えば浄土真宗と決めてしまうと、「南無阿弥陀仏」と唱えなくてはいけなくなる。「南無妙法蓮華経」と唱える日蓮宗はどうなるのか。それらを対立なく納得させることができるのが神道だったからである。神道は画一的な教義もなく、ただ清浄な空間を生み出す、という日本の土俗宗教である。「宗教の原型(昔は世界中、どこもこうした信仰だったが、他国は後に変質してしまった)」とも言われるほどの古くから続くものだ。神道なればこそ国家として祀るに相応しいのだ。もっとも、軍隊での公葬など、仏教式を取っていた公の場所も少なくない。靖国や護国神社においては、日本の伝統を重んじて神道式を選んだというだけのことだ。だからこそ、首相が参拝する場合は日本の伝統を重んじた神道式が相応しいのだ。ちなみに靖国神社は昇殿参拝は神道式だが、拝殿ではどんな参拝形式でもいいのである。また、昭和十四年に招魂社を護国神社と改称したときに、靖国神社が護国神社に「参拝形式は窮屈なものにすることは絶対に避けるべき」と主張したのである(大原康男氏の『忠魂碑の研究』)。どんな論者もこの事実に触れず、「靖国=天皇絶対の宗教」と捉えている。そんな輩は勉強不足で、ただ靖国への印象操作を繰り返しているだけだ。私は戦後、靖国が宗教法人化して、神道式の参拝のみに戻ったと思い込んでいたが、今でもこの方式は生きているそうだ。今でも靖国は国家の象徴であり続けている。
 なお、「靖国をはじめとする国家神道と伝統的な神道は別物」という議論も成り立たない。確かに明治期の神仏分離令が出て、今まで習合的だった仏教と神道が分離された。しかしそれと「靖国が伝統を反映していない」という議論は別物だ。続日本紀にも立派な人が神として祀られた、という記事が出ている。戦国時代にもこうした行為はあった。国家神道は今までの神道から転換を遂げてなったものであることは確かだ。しかしそれと「伝統を失った」ということは別物である。転換を遂げつつも、伝統を踏まえることは忘れなかったのである。靖国には「みたままつり」のように一般国民の側からはじめられた行事もある。靖国は、日本の伝統を保ち続けている。
(「歴史と日本人」平成18年9月28日掲載)
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第六回 友好

 「靖国神社に首相が参拝するのは日中友好に反する。中国に限らずアジア各国が反対している」。これに対しての回答は一つ。「国家に殉じた人をどう祀るかは純粋に国家主権の問題である」。日本人がいくら拉致されようが、外交官が外国に圧力をかけられ自殺しようが、自国の領土を簒奪されようが、友好のためには折れるべきだ、というなら話は別だが、そんな議論には誰も賛成しないだろう。
 もっとも、外交とは妥協の産物だともいえる。「ある程度の妥協も経済のためには必要」とも言える。しかし靖国問題に関してそれは当てはまらない。なぜか。それはこの文が一番言い当てていると思う。「(靖国問題で安易に妥協すれば)日本は経済的な利益のためには『国としての大義も捨ててしまう』国だと(支那が)誤解してしまうおそれもあるだろう。そうなると、外国における日本人の生命、財産を人質にしたり、日本企業を脅迫することにより、日本から経済的あるいは政治的な要求を満たそうとする国際的テロ行為を誘発する危険性すら出てくるであろう」(「大地の咆哮 元上海総領事が見た中国」、括弧内は引用者)。つまり、支那で自分が勤める企業のコピー製品が作られたりすることへの抗議がしにくくなる上に、外国で自分の安全を保障するはずのパスポートの効力さえ薄まる行為、それが靖国という国家主権への妥協といえるだろう。戦没者墓地とは国家そのものなのである。確かに短期的に見れば靖国参拝は経済的損失であるが、長期的に見て「言うべきところは言う」態度を見せないと、後々まで禍根を残すことになる。靖国参拝において、妥協的態度を見せるべきではない。だいたい、靖国神社に反対しているのは支那朝鮮だけである。ところが、これに対しこういうコメントが時々なされる。「反対しているのは支那朝鮮だけではない。東南アジアやアメリカも反対している」と。じつはこれはそのとおりなのだ。ただし、支那朝鮮以外は言論の自由の範囲内で述べているに過ぎない。つまり、賛成している人もいるし、反対している人もいるという状態に過ぎない。支那朝鮮と他の国の批判を同一視してしまうと、支那朝鮮の、反日に対して言論の自由を認めない態度の異常性が隠れてしまう。それはある事象を考察する態度として適切ではないだろう。
 だいたいアメリカが反対しようが、東南アジアが反対しようがそれが国家主権の問題であることに変わりはない。ならば断固拒絶するのが筋である。靖国参拝反対派は賛成派はアメリカの言うことなら何でも聞くと思い込んでいるらしい。悲しいかな、本当に「媚米」としか呼べない連中もいることは確かだが。
 今年の八月十五日、小泉首相が靖国神社に参拝した。そのときの記者会見での談話を一部引用させてもらう。正にそのとおりだと思うからだ。
 「たとえブッシュ大統領が靖国参拝に反対しても、私は行きます。もっとも、ブッシュ大統領はそんな大人気ないことしませんがね」。
(「歴史と日本人」平成18年9月24日掲載)
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第五回政教分離

 「靖国神社は政教分離に反する」。この批判は朝日新聞もしている。しかしその批判は適切なのか。
 政教分離条項とは憲法二十条第三項、「国及びその機関は宗教教育その他いかなる宗教活動もしてはならない」である。この文面を見れば確かに首相の靖国参拝は違憲のように見える。この議論に対して述べることは三つ。
  一、日本国憲法の政教分離規定はこの規定が誕生した経緯から見てかなり異端である。
  二、日本国憲法の政教分離規定を字義通り守ったら(九条と同じくらい)大変なことになる。
  三、世界の憲法でこれほど厳格に政教分離を定めている国は皆無に等しい。
 まず、一に対して。政教分離とは、宗教改革時、キリスト教がカトリックとプロテスタントに分かれた際、諸侯が自分の宗教的信条を領民に押し付けた過去があり、それを妨げるためだ。この押し付けは今では考えられないくらいすさまじく、教会の破壊なども行われた。つまり、政教分離とは国民の一個人としての信教の自由を保障したものであり、それ以上の効力はない、ということだ。靖国が国民個人の信教の上に乗っかって神道式を採用することにも問題はない。国民個人としての祭祀を抑圧するものではないからだ。
 次は二について。こんな規定を条文どおりに守ったら、修学旅行で寺に行ったりすることも違憲である。村が神社でお祭りをすることも違憲である。宗教とは何かを学校で教えることも違憲である。こんな規定が受け入れられるはずがない。第一、憲法とは条文一条で一セットなのである。この条文は国民の信教の自由を定めたものだ。だから政教分離規定である第三項も、その観点から見られなければならない。
 三について。日本国憲法下においてなぜ政教分離規定がこんなに変質したかというと、アメリカが日本の特攻などに恐れをなし、二度とアメリカに歯向かう「強い日本」が生成できないようにこんな規定を憲法に盛り込んだのだ。つまり、これはアメリカが「日本の強さの背景には国家神道及び天皇を(一神教的発想での)神だと信じているからだ」と勘繰り、そうならないように憲法に盛り込んだわけである。占領軍の国家神道と「天皇制」に対する敵視はすさまじいものがある。結局この二つはGHQの日本への無理解によって「軍国主義の温床」とされてしまったのである。日本人はこの偏見を正す必要があるのだが、学者でさえそれに気づいていない人が多い。
(「歴史と日本人」平成18年9月22日掲載)
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