「靖国神社は政教分離に反する」。この批判は朝日新聞もしている。しかしその批判は適切なのか。
政教分離条項とは憲法二十条第三項、「国及びその機関は宗教教育その他いかなる宗教活動もしてはならない」である。この文面を見れば確かに首相の靖国参拝は違憲のように見える。この議論に対して述べることは三つ。
一、日本国憲法の政教分離規定はこの規定が誕生した経緯から見てかなり異端である。
二、日本国憲法の政教分離規定を字義通り守ったら(九条と同じくらい)大変なことになる。
三、世界の憲法でこれほど厳格に政教分離を定めている国は皆無に等しい。
まず、一に対して。政教分離とは、宗教改革時、キリスト教がカトリックとプロテスタントに分かれた際、諸侯が自分の宗教的信条を領民に押し付けた過去があり、それを妨げるためだ。この押し付けは今では考えられないくらいすさまじく、教会の破壊なども行われた。つまり、政教分離とは国民の一個人としての信教の自由を保障したものであり、それ以上の効力はない、ということだ。靖国が国民個人の信教の上に乗っかって神道式を採用することにも問題はない。国民個人としての祭祀を抑圧するものではないからだ。
次は二について。こんな規定を条文どおりに守ったら、修学旅行で寺に行ったりすることも違憲である。村が神社でお祭りをすることも違憲である。宗教とは何かを学校で教えることも違憲である。こんな規定が受け入れられるはずがない。第一、憲法とは条文一条で一セットなのである。この条文は国民の信教の自由を定めたものだ。だから政教分離規定である第三項も、その観点から見られなければならない。
三について。日本国憲法下においてなぜ政教分離規定がこんなに変質したかというと、アメリカが日本の特攻などに恐れをなし、二度とアメリカに歯向かう「強い日本」が生成できないようにこんな規定を憲法に盛り込んだのだ。つまり、これはアメリカが「日本の強さの背景には国家神道及び天皇を(一神教的発想での)神だと信じているからだ」と勘繰り、そうならないように憲法に盛り込んだわけである。占領軍の国家神道と「天皇制」に対する敵視はすさまじいものがある。結局この二つはGHQの日本への無理解によって「軍国主義の温床」とされてしまったのである。日本人はこの偏見を正す必要があるのだが、学者でさえそれに気づいていない人が多い。
(「歴史と日本人」平成18年9月22日掲載)